旧明泉寮
マリアの御心会はフランス革命のさなかに誕生して以来、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジアの国ぐにへ広がり、それにともない、会員数も増えていった。しかし1950年代になっても、日本は未踏の地のままであった。マリアの御心会の来日に大きな役割を演じたのは、明泉寮である。以下、マリアの御心会の記録をとおして明泉寮の誕生のいきさつをご紹介したい。
まず、明泉寮とマリアの御心会のつながりから始めよう。マリアの御心会の記録に、つぎのような経緯が書かれている。
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上智大学が女子学生の入学を認めると、女子の入学希望者は年々増えていった。1958年には女子の志願者は134名で、うち56名合格。59年には、894名のうち160名合格。60年には1834名のうち310名が合格と、着実に増加した。
マリアの御心会来日の道を開いた
べーカー (在ホーリヨーク)
上智大学のルーメル神父は、地方から上京する女子学生たちがより良い環境で勉学できるようにと、女子寮の建設を熱望していた。そこへ摂理的にやってきたのがマリアの御心会のアメリカ人会員、ベーカーであった。当時、ボンベイ(現ムンバイ)にいたベーカーは、学会出席のために来日し、ルーメル神父に会う。彼の女子寮建設の構想をパリのマリアの御心会総長ラスコルに書き送った。それを受けて、ラスコルがマリアの御心会の来日と女子寮の設立を本気で考え出した。
有島暁子さんを囲んで
第1回若い女性のための文化講習会
このころ、ルーメル神父は信濃町に最適の場所を見つけていた。上智大学の女子学生の指導に当っていた有島暁子さんから、友人の犬養道子さんが信濃町の私邸を手放すことを望んでいると知らされたのだ。こうして、東京とパリで、未来の明泉寮の誕生は、驚くべき早さで実現へと向っていったのである。
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明泉寮と日本のマリアの御心会、ふたつの創立が並行して動き出した様子がよくわかる。会の別の記録をみると、寮の建設にまつわる出来事がさらに詳細に書かれている。
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上棟式でのルーメル神父
1959年(昭和34年)4月18日に、マリアの御心会の本部から総長のラスコルがアンケと共に来日。用地売買について犬養家との最終的な交渉をして、ラスコルは帰国した。アンケは市ヶ谷の援助修道会に身を寄せ、六本木のフランシスコ会の日本語学校に通うかたわら、創立の最初の準備に取り組んだ。
5月28日、上智大学のルーメル神父からパリ本部へ、「住宅公庫が低金利の長期融資を学生寮建設のためにも適用する」との連絡があった。この融資を受けるためには、少なくとも80人の学生を収容できる建物の設計図を早急に提出しなければならない。幸いにも、イエズス会に元建築家であったドイツ人のグロッパー修道士がおり、全力を尽して数週間で設計図を仕上げてくれた。そのおかげで、往宅公庫の融資を受けられることになったのである。
奈良にて
エリカ、アンケ、ルロワ、川口
9月29日の聖ミカエルの祝日に、初代院長となるルロワが若いドイツ人のエリカと共に日本に向けて飛び立ち、アンカレッジを経由して、10月1日の夕方、東京に着いた。空港でルーメル神父、バロン神父、有島暁子さん、アンケの出迎えを受けた。
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かくして、明泉寮の開寮とマリアの御心会の創立に欠かせない面々が一堂に会した。そのうちのひとりであるアンケは、パリ本部への報告書のなかで、開寮準備の様子や寮の落成までの具体的な出来事をときには自身の心情を散りばめながら、生き生きと描いている。
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六本木日本語学校
私たちの車は夕刻の東京の街を全速力で走った。車窓には漢字のネオンサインがまたたいている。いつの日か、私たちもこの不思議な文字を理解できるようになるのだろうか。
敷地内には母屋の他に、道路側に3、4軒の小さな家があった。私たちはその中の一番小さな家に移り住み、そろって六本木の日本語学校に通った。最初のころはこの「とてつもない」言葉の勉強と、祈りと家事と寮建設の準備に、限られた時間をどのように割りふってよいものか苦労した。
最初の明泉寮寮生と犬養邸
1960年4月には20名の女子学生を受け入れる予定であったので、年が明けると、母屋(2000年までの修院)の改造に取りかかった。この家には大きな屋根裏があったので、そこに9つの個室を作った。また他の部屋も、2、3人ずつの相部屋として使用できるようにした。母屋の工事期間中、私たちの小さな家は裁縫室となり、カーテンやベットカバー作りに追われた。3月末には、母屋の改造もカーテン作りも完了した。
ルロワと工事現場
4月15日の聖木曜日に最初の学生5人が到着。そしてちょうど復活祭に当っていた日曜日に全員がそろった。日本での最初の復活祭に、学生たちとのふれあいが始まったのである。エリカが準備したドイツ風の美しいテーブルセッティングや彩色したゆで卵、おいしいお菓子も、この日の喜びをより強く感じさせてくれた。生活は少しずつ軌道に乗ってきた。特別大きな困難もなく、寮は「動き」始めていた。
明泉寮模型
今度は、新しい建物について、具体的な最終設計図を作り上げる仕事が待ち構えていた。グロッパー修道士は、繰返し私たちに言っていた。「よくよく注意して見て下さいよ。鉄筋コンクリートの建物は、後で直しがきかないのですから」。困ったことに、設計図の説明は日本語で書いてあるだけで、私たちがいくら注意して見てもじゅうぶんに理解できないことがあった。
明泉寮地鎮祭
また、設計図自体さえも、私たちには解釈がおぼつかない場合があった。台所の壁に沿って記された窓を設計図で見つけて、とても明るい台所になりそうだと大喜びをしたところ、実はそれが天井近くの壁に取り付けられた38センチの開閉できる明りとりの小窓にすぎないことがわかった時には、この大きな青い紙(=設計図)には何が隠されているのか、手遅れになってから何が出てくるのかを思い、背筋が寒くなった。それにしても、設計士に頼んで台所に窓をつけてもらうのはとても骨が折れた。というのは台所が道路に面していたからである。日本人は通行人に窓から見られるのを不愉快に思う。たとえ磨りガラスにしても、影がうつるのを嫌うのである。しかし、何よりも気がかりであったのは、工事費の見積りが当初の予想よりずっと高くついたことであった。
明泉寮の基礎工事
5月6日、母屋の中の小さな聖堂で初めてミサが捧げられた。毎朝、信者の寮生(21人中5人)が熱心にミサに与っている姿に私たちは感動した。
番犬?だったケンとトム
新しい寮の建設工事は6月初めに始まった。まず、敷地内の古い小さな家々がとりこわされた。その中には、私たちが日本での最初の数か月を過ごした家もあった。庭の一隅にその家を移転したいと思ったが、老朽化しているので無理でしょうと言われ、あきらめざるを得なかったのは残念である。6月11日に定礎式が行われ、工事が本格化した。6月中、ブルドーザーが基礎工事のために、土地を深く深く掘り続けたので、私たちはまるで絶えまない地震の中で暮らしているような気がした。
9月になると夏休みが終わり、寮生たちが戻ってきた。私たちは新しい寮を開くことを念頭においてカーテンを縫い、小さな個室にふさわしいソファーベッドを探し求めた。
明泉寮・寮祭へ「ようこそ」
新しい寮の開寮は大学の新学期が始まる1961年4月15日と定められた。建設工事は3月31日で完了する予定であった。しかし日が経つにつれて、この納期内に竣工するのは難しいように思えてきた。それでも3月中旬には80名の学生が入寮の登録をすませた。
土井枢機卿による明泉寮の祝別
1961年5月3日
4月4日、新しい寮の職員は職務についたが、まだ建物に足を踏み入れることはできなかった。そこで母屋を作業場として、数日間で何百メートルという布地をカーテンに仕上げた。
4月12日、ついに職人さんたちが引き上げ、私たちは新しい寮に入ることができた。時間的にはぎりぎりであった。寮生の荷物が鉄道便で続々と届き、玄関ホールに積み上げられていった。
明泉寮の外壁のネームプレート
4月15日午前7時30分に最初の入寮生が到着。それから、次々と学生が到着した。皆、希望と不安を抱きながら日本各地から上京してきたのである。まず彼女たちのために日本の習慣に合った規律正しい生活と、その中で伸び伸びと成長できるような家庭的な楽しい雰囲気を確保することが私たちの仕事である。
1961年5月3日、土井枢機卿による祝別式が行われ、関係者や友人たちが一堂に会して開寮を祝ってくださった。

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